多分ね・・・

昨日は4月8日意味のない常磐高速原町、相馬間の開通式でした。この高速道の開通にお金をかけた意味があるのでしょうか?仙台方面北に向かう場合国道
6号線を北上しなければなりません、原町相馬間はわずか20分位でしょう   しかも相馬インターは6号線より離れています。原町から北上する場合、直接旧国道及び国道6号線を走ったほうが早いのです。そんな使いずらい高速を震災後急いで開通させた意味はなぜ?
予算が余っていたから?使い切らないと次年度の予算がつかないから?工事業者の為?僕はずっと違うと考えていました。
国や県は去年の段階から避難区域の見直しを最初から予測決めていたのだと
思います。また高速道路を開通させるつもりでいたんだなって。なぜなら原町から南には今現在行かれないのだから原町インターから先は工事をする必要が無いはず、それなのに工事はしていた。原町相馬間にしても意味の無いものです
4月16日より小高区も解除になり高速道工事が再開するでしょう。
そして富岡まで間違いなくつなげるでしょう。そして経済の為に原発が改善
されていないのに東京まで走れるようになる、地域が要望しているからとか
言ってね。ますます原発に近づき東電は便利になる。工事業者の宿泊地が
高速がつながれば広がるからね。安全も確保できない、保証もしない、収束
も出来ていない、除染も始まってもいない、仮置き場も決まっていないのに
そんなことばっかり進めていいのか・・国にもあきれ返るが県知事にも呆れ
返ってしまう。なんの反省もないね、そこで大きな事故や問題が起きた時どを
するのか考えていないのだろうね・・予想では来年中には全面開通するのではと思っています。想像したくはないですが・・

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しばらくぶりに・・・

本日4月7日森林組合より頼まれ、20キロ圏内の小高区にて風倒木による、家屋被害の現場に行ってくれないかとの連絡あり、急遽登録をし禁断のゲートを超えはいってきました。簡単に小高区の説明をしますが南相馬市の南側で
20キロ圏内になり今現在避難区域で立ち入りに許可が必要で4月16日以降立ち入り見直し区域になるところです。
昨年6月に創作活動の一員として入った以外に小高区に来たことが無かったので本当に久しぶりでした。またそこで目にした風景は全く時間が止まっていました・・
海が見える国道6号線沿いには重機や車がつぶれたり流されたりしたままあちこちにあり、田や畑ににも瓦礫がいっぱいでした。中心部や家屋は崩れたまま手つかずで信号もついていない状態です。今現在避難区域なので当たり前ですが・・
しかし聞いてください!考えてください!小高区の中心部を超えた途端空間線量は2.0μシーベルトを超えなんと現場は3.0μシーベルト!庭の雨水のあつまるところは40マイクロシーベルト!現場は原発から直線距離で15キロ、近くの小学校は除染をしたものの0.4μシーベルトでした。数字をみれば除染して下がって良かったねと思うかもしれませんが3日後から段々数字が上がっているそうです。そんな状態のところが避難指示解除区域?なんて中途半端な名称で4月16日から自由に出入りが出来るようになるのです!基本的には出入りは誰でも自由!宿泊や住むことは出来ないしかし出入りに何の制限も無いのです!ありえないでしょう!!小高の隣は浪江町だよ!いよいよ原発が見えるところにちかずいて来て!本当にいいのか!安全なのか?狙いは何なのか?!
簡単だよ、国はこれ以上東電や国の保証の負担を減らすために安全より解除が優先、経済がお金が優先なんだよね・・
役人や東電関係者は小高に自分たちの家族を連れて来てみろ!福島県に南相馬市に引っ越してこい!と言いたい。完全に解除になり、そのうち常磐道も通行できるようになるでしょう。その時どんな事になるか想像したくないです。

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今度は絶対に・・・

久しぶりに書きます。しばらくずっと考えていたことがありました。心の中に
引っかかっていた事です。
実は以前にも質問されたことがあり、今日また同じ事を聞かれました。      

「今度原発が爆発したらどうしますか?」

僕の答えは、もう逃げない・・

昨年の3月11日大地震を現場で遭遇し、施設の子供達を送迎中に、津波の威力と原発の危険を察知して翌日準備をし、家族や職員友人を連れ埼玉に避難をした。そして情報をいち早く入手し大勢の人に電話をかけ避難するように頼んだ。その後ガソリンも無く、灯油も無く、食料も無く、みんなが苦しんだ・・

その後会社に有った灯油やガソリン、軽油、また食料は全て友人達に渡した。それでも足りず避難先の埼玉県から持ってきた。
そしてまた埼玉に戻った・・・
屋内退避が解除される約一月の間に何度か南相馬に戻ってきたが、全てが遅すぎたと思っている。もし一度も避難せずあの震災後も南相馬に居たのなら、家族を避難させた後すぐに戻ってきたら、もっとみんなの為になる事が出来て、助ける事が出来たのに、と考えてずっと過ごしてきた。避難先から友人や知人と連絡を取り合うたびに胸が痛くなった。
もっと自分ができる事をすれば良かったと、後悔している。
もちろん自惚れかもしれないけど・・
震災前から自然災害やもしもの場合に備え冷静に順備をしてあった、大勢の人達を受け入れるだけの施設もあった、たくさんの人達が入れるお風呂もあった、布団もあった、食料もあった、駐車場もあった、大勢を移動させるバスもあった、トラックも重機も困っていた人達が欲しかった物がみんな有った。
そんな中持ち主の僕は地域にいなかった・・
その結果沢山の人が苦しんだ。
自分ができる事をできなかった、後になってあの時こんな事が・こんな物が
有ればという話を聞くたびに辛くなる。
今はもう南相馬には自分と長男だけ、長男は南相馬に帰ってきた時点で諦めています。一度は親として避難をさせ、身を守ったつもりです。
施設も今は休業し、避難させるべき職員もいない。
世間ではこの一年にもう一度大地震はあると言っている、原発はその際また
大変な事になると思う。でも何事もないように生活をし、危険な中地域に沢山の子供達が戻ってきている。去年のあの震災、原発事故はもう過去のものに
なりつつある、そんな中何かあったら・・考えただけで怖ろしくなる。
今の原発は怖ろしいものでは有るが、僕は怖くはない。
もう、見過ごす事はしたくない。  

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何の罪もないのに

今回の原発事故の一番の被害者は子供たちだといつも思っています。
大人は子供達に本当に謝るべきだと思っています。
大人の都合で原発を作り、経済優先の社会をつくってしまい、その結果子供達の楽しい生活を奪ってしまい本当にごめんなさい。

去年のあの寒い日々に電気も食料も無い不便な状況でも我慢をし学校再開後も給食がなくても、暑くて狭くちゃんとした授業ができなくても、本当に様々な事があったのにもかかわらず毎日笑顔で元気よく過ごしている姿を見るたびに心が痛くなります。
今も学校や友人と離れ離れになり南相馬に帰ってきたい子供たちがが沢山いる。
もちろん我が家でもそうです。
理由を聞かれるたび、帰りたい、戻りたい、友達と同じ学校に行きたいとお願いされるたび
悲しくなります・・
帰ってきてもいいよと本当は言ってあげたい・・
親として本当に悩みかなしいです。
親として最低限できる唯一提供できるたのしい学校生活、その事すらできない・・

国や東電が言うように本当に健康被害がないのか、本当はあるのか本当にわからなくなる。
子供たちに今後もし健康被害があった場合の覚悟は親として持ってはいます。
どんな事があっても責任を持って面倒をみる。
だけど何もあって欲しくないと思うのがすべての親の気持ちだと思う。
国や県、市のトップになる人達そして自分も入れた大人達はもっと考えなければいけないと思う。そして考えてほしい。
一番の被害者は誰なのか・・
未来の日本は誰が作ってくれるのか、この自然や故郷を守り続けてくれるのは子供たち
だと思う。
だからもっと子供たちの健康や命そして未来への夢や希望を与えられる事をしよう。
もっと国は子供たちの為にお金つかってください。お願いします。

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頑張ったね!

南相馬市と姉妹都市にになっている杉並区での復興支援及び震災のセレモニーで日フィルの弦楽四重奏とともに3曲歌ってきました。
「君と僕のラララ」「ともだちになるために」「ビリーブ」です。

今回なかなかスケジュールの調整がつかず、また様々な所でのセレモニー参加のため、少人数での参加になりましたが子供たちは本当に素晴らしい歌声を披露してくれました。

参加した子供たちは合唱団や音楽好きでもなく本当に普通の子供たち。

家庭の事情で一度も避難せずにずっと原町で過ごし頑張ってきた兄弟。
一度は避難するも原町に帰ってきた子供。
家庭の事情で兄弟や家族離れ離れになっている子供
小学校の最後を南相馬で過ごす為に原町に帰ってきた子供
でも本当に故郷南相馬原町が大好きな子供たちばかり。

そんな子供たちと、だからこそ上記の三曲を歌いたかった。

子供たちは大好きな友人たちと別れ、自分の家にも住めず、学校にも通えず、あの暑い夏も
マスクをしながら生活をしてきた。何が何だかわからないまま一生懸命こらえ頑張って生活
してきた。でも子供たちは過去を振り返らず常に前を見て生きている。どんなに大変な生活の中
でも笑顔や笑い声がある。そんな子供達と一緒に歌を日フィルの弦楽四重奏をバックに大勢の人達の前で一緒にに歌えた事はなによりうれしかった。
子供たちの歌声は心に響く素晴らしいものだった!

この一年を振り大人に聞くと悲しい事、辛い事、悔しい事の思い出話ばかり・・
今回の杉並震災復興セレモニー参加で僕が子供たちと一番伝えたかった事は僕たち福島に
住む人達はかわいそうな人じゃない!前をみていける強い人!夢や希望をもち感謝の気持ちを忘れないすばらしい心を持った人たちなんだと・・
この先まだまだ地域の復興は時間がかかる子供たちの環境もまだまだ改善されないだろう。
だけど見守り一緒に生きていく大人として精一杯応援したい!
子供たちと一緒に明るい未来を目指していきます!
本当に二日間おつかれさま、そしてありがとう!

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あっという間の一年

早いような長ったようなあの昨年の3月11日、東日本大震災及び原発事故という誰しもの記憶に
残る日がまた年を変えやってきた。

3月11日は、日本人及び世界中の人達にとって自然の恐ろしさと人間が作った怖ろしさをまざまざ
と感じさせた日になり、また故郷の素晴らしさ、今までの生活がどれほど良かったか、幸せだった
かをわからせくれた日でもある。

一日でも早く地域の復興や再建をはかりたいところではあるが、人間が作り出した最強に最悪の
放射性物質が邪魔をして先はまだまだなのがじっさいです。人々が健康や命を何も考えず
生活していたわれらが地域はどうなる事か・・・
家庭や友人仕事や地域は震災よりも原発事故により誰もが引き裂かれ苦しめられ悩み今現在も
見通しがたたない。
一日でも早くもとに戻してほしい。全てをかえしてほしい・・

津波や地震による被害場所は復旧しつつあるが、放射性物質による被害地はまだまだ・・
街には大人があふれ子供たちはちらほらしか見えないさみしい街になってしまいました。

去年は何もわからないまま少しでも前向きにと行動してきました。今年は何をどうするべきか
地域のため子供達の為社会の為になる事をします。

あーす再開にはまだまだ時間はかかるしかし子供達とのかかわりを今年はたくさん作ります。
地域の為になる事をいっぱいしたい。
再建には程遠いですがあきらめず今日をはじめの一歩と考え踏み出していきたいです。

今は日本青年館にいます。杉並公会堂にて南相馬市の復興支援の集いに参加するべく来ています。
日本フィルハーモニーの弦楽四重奏とともに南相馬市の子供たち九人と三曲歌います。
君とぼくのららら、友達になるために、ビリーブです。
どれもとても素晴らしい歌です。こんな時だからこそこの選曲をし歌詞が心に響きます。

頑張って歌います。皆さんも一度は聞いてうたってみてください。

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仕事は違うけど・・

今日は友人の事を書きたいと思います、友人と言っても僕よりも年が上ですがいつも
困っている時に助けてくれる大切な友人です。
Oさんは自分達でログハウスを手作りし鶏を飼い卵を売り、無農薬や有機栽培の農業を
奥さんと二人で始め、温室によるイチゴ栽培や体験民宿、消費者と直接販売をするなど
積極的に新しい農業を20年以上前から取り組んできた人です。
また農業以外でも自宅脇に工場を作り鉄工所や機械修理店としても活躍していました。

我があーすの薪を並べる台やトラクターや水中ポンプ等のエンジンの修理を本当に毎回
またか~と言いつつ良く直してくれました。
働くことを生きがいとし、良いものを人々に届けたい、顔の見える仕事をしたい、と
自分のする仕事に信念とプライドをもっている人です。

そんなOさんと震災後も何度か電話では今後の事について話したりしていましたが、
久しく連絡をしていなかったのでしばらくぶりに近くまで行ったので訪ねてみました。

Oさんは悩んで悩んで今までのような元気がありませんでした。
理由は簡単です、南相馬市は去年から米作りが出来ず、今年来年と米作りが出来ず、イチゴ
も野菜も不安があり作れない・・今後をどうするかと。Oさんの家の倉庫の軒下には沢山
の顧客からの励ましの言葉が書いてあるハンカチがいっぱいいっぱい!ぶら下がっています!
Oさんはもうすぐ60歳農業をあきらめるべきかハンカチに込められた想いにこたえるか
毎日自問自答しているのです。
南相馬を離れ安心して農業ができる地域に移る決意をし昨年下見や行政とも話をし何度も
足を運び気持ちの半分以上はかたまっています。
しかしそこには様々なハードルがあるのです。農業には様々な機械や道具がいる、体一つ
で行きできるモノとはとは違う、土づくりから始めなければならない・・それには労力や
時間、そしてお金がかかると・・・
東電は仕事をうばっておきながら物の補償は金で解決しようとし仕事を返してはくれない!
出来ない仕事や生きがいを求め新天地に移る際の費用は補償しない・・全ては自腹でしなけれ
ばならい、その決断が出来ないのです。全く僕の悩みと同じなのです・・
自分の事が必要だと言ってくれる人達がいる事は何よりもうれしい!しかし相手に不安や
安心感が与えられないところでの仕事は出来ない、何もしないで自分だけがとりあえず
生活を何とかしていこうと云う生き方はOさんにも無いのです。
もうすぐ種まきの時期になります決断に迫られているのです・・
もう少し若ければ迷わず進めるのにと・・悔しいと言っていました。
同じ気持ちです・・本当に悔しく辛いです。

Oさんは言っていました、今何も考えず野菜を作り、田の土を入れ替えできるようになるまで
待つという人がいる、放射性物質はまだ出ていて雨や埃などでやってくる!田んぼの水は
山からやってくる、山の除染が出来ないうちは意味がないだろう・・山のおいしい水が
おいしい米をを育てる、はげ山にしたらおいしい水は出ない山の除染は20年自分は生きて
いないよ・・
ともにかたちは違うけど命にかかわる仕事をしている者、ともに信念をつらぬこう!と
話をしました。

東電や国は物だけでない、生きがいというかけがえのないものを奪った!
という事もっと真剣に考えて欲しい!と思います。

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もうすぐ一年

長いようで短いような去年の3月11日から一年がたとうとしています。地震だけでは無く原発事故
による被害で苦しめられるとは考えてもみない事でした。

原発事故による被害には今現在も人々は苦しめられています。もちろん僕もその一人です。
仕事を無くし、家族はバラバラになり、友人や、知人もいなくなり、夢や希望もなくしこのまま
行ったら故郷さえなくなってしまう可能性があります。

我があーすは現在まだ休業中、放射線値もずいぶん下がってきましが平均毎時1.1μシーベルト
あります。建物内でも0.3から0.4μシーベルトあります。以前に比べれば下がっては来ていますが
市内との放射線値の差は相変わらずあります。
あーす再開への壁はまだまだ高い、しかしこのままではいられないし負けていられない!

子供達の為に、地域の為に出来ることを考え一つずつかたちにしていきます!

随時このブログで発表していきます。

 

 

 

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本当に良いの?

最近首をかしげてしまうことがたくさんあるが、その中の一つが学校再開問題です。学校再開
の有難さは確かにわかります。しかし今このタイミングで本当に再開していいのかが疑問です

最近また地震が多くなり今現在の原発の危険性に多くの学者や海外でも取り上げられています
いまだに危険な状況は変わっていないような気がするのですが・・

4月から始まる本格的な除染を前に市民が新たに戻ってくるような事を今するのが疑問です。
除染作業で住宅の洗浄をすれば埃やチリになり空気中に散らばる。
それを吸い込んだりすればよくない事だと児玉教授も以前言っていました。
その本格的な除染が始まる前に大人だけでなく子供が帰ってきてしまうようにするのはどうなの?
と言いたくなります。せめて学校を再開を新たにするなら学校の周辺何キロと決め住宅街や地域
を最優先に除染してから徐々に戻すべきでないかと思う。
市内にあるある高校では去年10月に除染をし学校再開をしたが12月には微量ながら学校全体
の数値が上がっていました。風が吹けば埃や塵と一緒にやってくるのでしょう。
地域の除染が済まないうちは地域内にある学校が無事なわけがないと思う。
放射性物質は未だに原発から出つづけているし放射性物質は自然に分解される物ではないから
除去しない限り無くならない一度除去した所に違う場所からやってくる事の可能性は大でしょう?
除染はすると決定したが実際的な方法が決まってもいない、説明もない、安全か危険か、市民が
住んでいる中でおこなって良いのか悪いのかどうか?という事すらまだないのに・・

よく国や県、市は考えてほしいです。今回の原発事故以来先走った無責任の行動が後になって
問題になった事が多々あるわけだから。放射性物質の問題は長期問題になる事は誰もが認める
問題です。だからこそ焦らず行政の都合ではなく市民のそして命や健康問題を優先に考えて
行動してほしいと願います。

 

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大先輩の話「Hさん編」

今から20年ぐらい前の話だ。
ちょうど今の僕と同じぐらいの年のHさんと出会った。
そもそもHさんとの出会いがなければ、僕は山の仕事はしていなかった。

Hさんは僕に林業に進むきっかけをつくってくれた人だ。
最初にHさんと行った初めての仕事は春の植え付け作業でした。
夏の下刈り作業はキツク危ないから、植え付けから始めて体を慣らそうという親心が
あったようです。本当のところはまぁ一番足手まといにならない仕事だったのではと思います。

一番最初に行った時には僕はほとんど何もできず、Hさんについて歩くだけだった。
熱くそして何をして良いかわからず何も出来ずに終わりました。結果的には足を引っ張って
いただけでした。
急斜面でもひょいひょいとカモシカのように歩いて行くその姿に、僕とは体の作りが違うと
思ったくらいだった。

自分の体力が通用すると思っていたのが、全く通用せず、これは自分には出来ない仕事だと
思った。ただ、その仕事をするしか当時の僕は生活の糧を得る方法がなかった。
その後夏の下刈り作業の季節になった、7月から始まる下刈り作業は熱い時間をさけ涼しく体に
楽な涼しい時間をという事で朝の4時から始まって8時まで4時間仕事をする。
8時から1時間朝食休憩をとって、そのあと4時間仕事をして13時に仕事が終わる。
山に4時に行くから3時半には出ないと行けない。
きつかった。
山の仕事が嫌で嫌で、行きたくないと何度も思った。
雨の日は体も楽だし草もよく切れるから?の理由で余程でない限り仕事だった。

夏は「水を飲むな」「体をもっと動かせ」「今日より明日はより早く動け」
「仕事が一人前になるまで屁理屈を語るな!」「草刈機を持つ格好が悪い」という指令が出たり、
「ギナ」だのなんだのと言われっぱなしだった。下刈り作業のきつさと早起きと言われる事の
きつさに根をあげて、1か月ぐらい休んで連絡もしない事もあった。
自分にはもっと適した違う仕事があると思っていた。

そんな時にHさんは「1週間だけでも仕事に来ないか?」とか
「1日だけでも仕事に来ないか?」
とか誘い続けてくれた。
少し心がほぐれた僕は段々と仕事に出るようになった。
仕事以外で会う時は優しかった。

今、思えばいろんな事がありました。
雨の日のほうが体が涼しいから楽だと言われて、例え大雨の日でも作業しました。
昼食はカッパを着たまま(とは言っても下は降ろす)軽トラックの中でおにぎりを
食べたのを思い出します。

若かった僕はいつかHさんを抜いてやろうと頑張ってきましたが、一度も勝てた事は
ありませんでした。

今思うと、若い僕を育てるために労力をかけてくれたHさんの心遣いがわかります。

20年経ってあの時のHさんと同じ年になり、今度は僕が若い人を育てる番に
なったことを痛切に感じています。

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