震災後記 救援物資を運んだ話 その2

埼玉県から南相馬市までは下道だと車で6~7時間かかります。

当時は高速が福島県では使えませんでしたのでほとんど下道を使いました。

雨が降りだしてきたので、途中の栃木のコンビニでカッパを買い込んだり
しました。

福島県に入るとみなに緊張が走ります。
冗談は出るものの顔は真剣さが抜けていません。

そこから飯舘村に入ったところで、小便をしたくなった人が出たので、
トイレ休憩を取りました。

「もりの駅まごころ」を使ったのですが、当時は真っ暗で異様な風景に
思えました。

今でもこの辺りは2μSV/h近くありますが、当時はもっと高かったんでしょうね。
思い出の場所となりました。(笑)

明け方3時ごろになって南相馬市の鹿島区の山中にある事務所に着きました。

そこで私達は別行動をとることになります。

社長と側近の人だけが残って、救援物資の運び出しや避難所の方々を
風呂に入れるための準備をすることになりました。

それ以外の社員は会社の車を持って、市内のアパートで最低限必要なものを
手に入れたら埼玉の社長宅に「とっとと戻れ」というのが社長の指示でした。

社員に余計な被爆はさせたくなかったんでしょう。

最初は救援物資の運搬も自分一人で行くと言い張っていた人ですからね。
それは全員の猛反対に合って頓挫しましたけどね。

私はアパートで少し寝てから同僚のM君と一緒に出発しました。

朝の9時ごろには出てしまいました。

よって、救援物資を運んだ様子はすべて社長から聞いた後日談でのみ
知ったことです。

当日は救援物資は原町区の避難所からは受け入れを拒否されました。
なんでも、物資はたくさんあるのでいらないとのこと。
私達は社長も含めて住んでいるのは原町区なので、できればこの地区の
役に立ちたかったです。

結局隣の鹿島区の避難所に持って行ったのですが、避難者が集まってきて
言われたのが、「これはもう食べあきたからいらない」というセリフの
数々・・・。

残りを知り合いに配ってもまだ余ってしまいました。

残ったレトルト食品などは社員が食べることになりました。
日持ちのしないもので後日捨ててしまったものもあります。

さて、入浴はみんな楽しみにしているのだろうなと思っていたら、
当初100人が来る予定が実際に来たのは30人。

しかも、風呂に入る段階になって、「私はあのおばあさんと一緒に風呂に
入るくらいなら入らない」「あのグループとは一緒に入りたくない」
と言われて結局風呂の利用者も数名程度。
避難所での生活がどうなっているのかよくわからないけど、「避難」という
緊急事態ぐらいは「みんなで力を合わせて」とか、思いやる風潮を育てて
欲しいものです。

私たちは、大げさだけど、今思うと笑い話かも知れないけれど、死ぬ思いをして救援物資を
運んできました。

だけど、この避難者の態度はなんなの?と非常にがっかりしました。

南相馬市はもともと「鹿島」と「原町」と「小高」の3地区が合併して
できた市で、それぞれの区内ではまとまりがあるものの、お互いの区同士
は仲良くありません。
議員さんも「自分の区」のためには動こうとするけれど、他の区のことは
軽視している傾向があります。

今回も議員さんを通じて救援物資を届ける段取りを組んでいたら、横やりが
入れられたそうです。「自分だけいい格好するつもりか?」なんて
足を引っ張られても、そんなのは「下衆の勘繰り」です。
色々な人と連携が取れればもっと避難者のニーズにあった対応の
仕方もできたと思うのですが、今回はできませんでした。

よってまとまりがないまま、連携プレーがないまま、ボランティアの
受け入れも拒否して市職員だけで避難者への対応を行った結果、
避難所以外に住む高齢者達は取り残されて非常に苦しい生活を強いられた
ようです。

各地から届けられた救援物資も「不公平になると文句が出るから嫌」
という理由のようで、数が揃わなければ避難所で配られなかったり、
「救援物資は避難所に住んでいる人たちのもの」という変な理論が
まかり通って、余っていても避難所以外に住んでいて食料に困っている
人たちには配られませんでした。

南相馬市には震災時のおかしなところ・不手際はたくさんあったと思います。

非常にがっかりしながらも良い勉強になった2日間でした。

震災後記 救援物資を運んだ話 その1

早めの判断で逃げたので、私たちは震災の苦労は一度も味わっていない。

埼玉県の社長の実家にお世話になりながら、社長と社員とで原発事故の分析を
ずっとやってきた。
報道はとてもじゃないけれど、全部を信用することはできなかった。
「どこまでがホント」で「どこまでがウソ」なのか、テレビやインターネット
や現地に残った人達とのやり取りを通じて自分達で分析してきた。
たまたま原子力に詳しい人が2人いたのも役に立った。

飯舘村は早急に避難するべきという見解も自分達は早々に出していた。
ドイツのシュピーゲルの情報で放射能拡散予測も事故後1週間後ぐらいには見ていた。

戻るべきか、福島を捨てて関東圏での再起をかけた動きを起こすべきか
ずっと考えてきた。

原発のニュースににらめっこして、侃々諤々しながらも生活は安穏だった。

衣食住は社長の実家が全部面倒を見てくれた。

一緒に逃げてきた社長の3人の子供達と遊ぶのも楽しかった。

だけど、何かが違う・・・・。

自分達だけが平和な暮らしをしていることにストレスを感じはじめていた。

新入社員は1月末に福島に引っ越してきた人ばかりだから、知り合いも
少ないし福島への愛着はそんなに強くないけれど、社長をはじめ、福島県に
長い間住み続けた人はお世話になった人も多い。
「地元に残った人間は食料が無くて苦しんでいる。自分達だけが安穏な
生活を送っていて申し訳ない」という気持ちをずっと持っていた。

特に南相馬市原町区は「屋内退避地域」になったため、放射能にびびった
運送トラックが入ってこなくなり、「陸の孤島」になってしまった。
ガソリンも無くなって来たので、避難も出来ないし、食料を遠くに買いに
いくことさえ出来ない。
たまにガソリンが入って来ると、それを手に入れるのに長蛇の列ができて、
結局ガソリンを手に入れられずに帰ってくることになり、残ったガソリンも
どんどんなくなっているのが現状だった。

現地の人の声を聞くと「米と水はふんだんにある。」「それ以外の食料は
何もない。」ということだった。

私達の安穏な生活がストレスになり始めていた原発事故後10日間が過ぎた
頃になり、多少の被爆は覚悟してでも救援物資を届けに行こうということに
なった。

会社において来た数台の車を埼玉に持ってきて、もしもの場合に関東圏で
仕事を再開させようという思惑もあった。

社長はうちの現地の人と連絡を取り、必要な物資や受け取り方法などを決めた。

現地の情報から、食料に困っているのは避難所ではなくて、残された個人の
住宅(特に老人だけの世帯)だとわかっていたが、個人のお宅を回るのは
やめてくれと市の方からお願いされました。

市職員も避難した人が多く、今残っている市民たちの管理だけで手一杯
なので、避難所に救援物資を届けたら早々に帰ってほしいとのことでした。

たとえば、市の知らないところで再び生活を始められて、水道漏れや火事や
事故が起こっても消防隊自体が解散してしまったので対応が難しくなる
とのことでした。

そして、避難所に救援物資を配ることと、避難所の人たちは10日間も
風呂に入れていないので、うちの会社は6人ぐらい一緒に入れる風呂が
あるので、そこに希望者を入浴させるということまで決まりました。

議員さんが動き回ってくれて、100名の希望者があったようです。

放射線量が高くなるとされる雨の日を避けて行く日にちを決めて、
いよいよ埼玉県のスーパーを回ってみんなで買出しに行きました。

その頃は関東でも買占め騒ぎがあり、何件も回って品をそろえました。
社長が一人で出した30万円分の食料をかき集めました。
主におかずや麺類や野菜などですね。

それをマイクロバスに詰め込んでいよいよ出発です。

正直怖かったです。

というのも、埼玉県から南相馬市に行くためには飯舘村を通る必要が
あったからです。

遠回りすれば回避できるのですが、時間がかかりすぎてしまいます。

当時はガイガーカウンターを持っていませんでした。

同行した人たちはみなマスクを2重にして、間にウエットティッシュを
挟むという念の入れようでした。

今から思えば笑い話かも知れませんが、その時はみんな
「死んでも前に進む」という覚悟があったような気がします。

車の通りの少ない夜間を選んで、私達のマイクロバスは福島へと
向かっていきました。