あっという間の一年

早いような長ったようなあの昨年の3月11日、東日本大震災及び原発事故という誰しもの記憶に
残る日がまた年を変えやってきた。

3月11日は、日本人及び世界中の人達にとって自然の恐ろしさと人間が作った怖ろしさをまざまざ
と感じさせた日になり、また故郷の素晴らしさ、今までの生活がどれほど良かったか、幸せだった
かをわからせくれた日でもある。

一日でも早く地域の復興や再建をはかりたいところではあるが、人間が作り出した最強に最悪の
放射性物質が邪魔をして先はまだまだなのがじっさいです。人々が健康や命を何も考えず
生活していたわれらが地域はどうなる事か・・・
家庭や友人仕事や地域は震災よりも原発事故により誰もが引き裂かれ苦しめられ悩み今現在も
見通しがたたない。
一日でも早くもとに戻してほしい。全てをかえしてほしい・・

津波や地震による被害場所は復旧しつつあるが、放射性物質による被害地はまだまだ・・
街には大人があふれ子供たちはちらほらしか見えないさみしい街になってしまいました。

去年は何もわからないまま少しでも前向きにと行動してきました。今年は何をどうするべきか
地域のため子供達の為社会の為になる事をします。

あーす再開にはまだまだ時間はかかるしかし子供達とのかかわりを今年はたくさん作ります。
地域の為になる事をいっぱいしたい。
再建には程遠いですがあきらめず今日をはじめの一歩と考え踏み出していきたいです。

今は日本青年館にいます。杉並公会堂にて南相馬市の復興支援の集いに参加するべく来ています。
日本フィルハーモニーの弦楽四重奏とともに南相馬市の子供たち九人と三曲歌います。
君とぼくのららら、友達になるために、ビリーブです。
どれもとても素晴らしい歌です。こんな時だからこそこの選曲をし歌詞が心に響きます。

頑張って歌います。皆さんも一度は聞いてうたってみてください。

仕事は違うけど・・

今日は友人の事を書きたいと思います、友人と言っても僕よりも年が上ですがいつも
困っている時に助けてくれる大切な友人です。
Oさんは自分達でログハウスを手作りし鶏を飼い卵を売り、無農薬や有機栽培の農業を
奥さんと二人で始め、温室によるイチゴ栽培や体験民宿、消費者と直接販売をするなど
積極的に新しい農業を20年以上前から取り組んできた人です。
また農業以外でも自宅脇に工場を作り鉄工所や機械修理店としても活躍していました。

我があーすの薪を並べる台やトラクターや水中ポンプ等のエンジンの修理を本当に毎回
またか~と言いつつ良く直してくれました。
働くことを生きがいとし、良いものを人々に届けたい、顔の見える仕事をしたい、と
自分のする仕事に信念とプライドをもっている人です。

そんなOさんと震災後も何度か電話では今後の事について話したりしていましたが、
久しく連絡をしていなかったのでしばらくぶりに近くまで行ったので訪ねてみました。

Oさんは悩んで悩んで今までのような元気がありませんでした。
理由は簡単です、南相馬市は去年から米作りが出来ず、今年来年と米作りが出来ず、イチゴ
も野菜も不安があり作れない・・今後をどうするかと。Oさんの家の倉庫の軒下には沢山
の顧客からの励ましの言葉が書いてあるハンカチがいっぱいいっぱい!ぶら下がっています!
Oさんはもうすぐ60歳農業をあきらめるべきかハンカチに込められた想いにこたえるか
毎日自問自答しているのです。
南相馬を離れ安心して農業ができる地域に移る決意をし昨年下見や行政とも話をし何度も
足を運び気持ちの半分以上はかたまっています。
しかしそこには様々なハードルがあるのです。農業には様々な機械や道具がいる、体一つ
で行きできるモノとはとは違う、土づくりから始めなければならない・・それには労力や
時間、そしてお金がかかると・・・
東電は仕事をうばっておきながら物の補償は金で解決しようとし仕事を返してはくれない!
出来ない仕事や生きがいを求め新天地に移る際の費用は補償しない・・全ては自腹でしなけれ
ばならい、その決断が出来ないのです。全く僕の悩みと同じなのです・・
自分の事が必要だと言ってくれる人達がいる事は何よりもうれしい!しかし相手に不安や
安心感が与えられないところでの仕事は出来ない、何もしないで自分だけがとりあえず
生活を何とかしていこうと云う生き方はOさんにも無いのです。
もうすぐ種まきの時期になります決断に迫られているのです・・
もう少し若ければ迷わず進めるのにと・・悔しいと言っていました。
同じ気持ちです・・本当に悔しく辛いです。

Oさんは言っていました、今何も考えず野菜を作り、田の土を入れ替えできるようになるまで
待つという人がいる、放射性物質はまだ出ていて雨や埃などでやってくる!田んぼの水は
山からやってくる、山の除染が出来ないうちは意味がないだろう・・山のおいしい水が
おいしい米をを育てる、はげ山にしたらおいしい水は出ない山の除染は20年自分は生きて
いないよ・・
ともにかたちは違うけど命にかかわる仕事をしている者、ともに信念をつらぬこう!と
話をしました。

東電や国は物だけでない、生きがいというかけがえのないものを奪った!
という事もっと真剣に考えて欲しい!と思います。

もうすぐ一年

長いようで短いような去年の3月11日から一年がたとうとしています。地震だけでは無く原発事故
による被害で苦しめられるとは考えてもみない事でした。

原発事故による被害には今現在も人々は苦しめられています。もちろん僕もその一人です。
仕事を無くし、家族はバラバラになり、友人や、知人もいなくなり、夢や希望もなくしこのまま
行ったら故郷さえなくなってしまう可能性があります。

我があーすは現在まだ休業中、放射線値もずいぶん下がってきましが平均毎時1.1μシーベルト
あります。建物内でも0.3から0.4μシーベルトあります。以前に比べれば下がっては来ていますが
市内との放射線値の差は相変わらずあります。
あーす再開への壁はまだまだ高い、しかしこのままではいられないし負けていられない!

子供達の為に、地域の為に出来ることを考え一つずつかたちにしていきます!

随時このブログで発表していきます。

 

 

 

本当に良いの?

最近首をかしげてしまうことがたくさんあるが、その中の一つが学校再開問題です。学校再開
の有難さは確かにわかります。しかし今このタイミングで本当に再開していいのかが疑問です

最近また地震が多くなり今現在の原発の危険性に多くの学者や海外でも取り上げられています
いまだに危険な状況は変わっていないような気がするのですが・・

4月から始まる本格的な除染を前に市民が新たに戻ってくるような事を今するのが疑問です。
除染作業で住宅の洗浄をすれば埃やチリになり空気中に散らばる。
それを吸い込んだりすればよくない事だと児玉教授も以前言っていました。
その本格的な除染が始まる前に大人だけでなく子供が帰ってきてしまうようにするのはどうなの?
と言いたくなります。せめて学校を再開を新たにするなら学校の周辺何キロと決め住宅街や地域
を最優先に除染してから徐々に戻すべきでないかと思う。
市内にあるある高校では去年10月に除染をし学校再開をしたが12月には微量ながら学校全体
の数値が上がっていました。風が吹けば埃や塵と一緒にやってくるのでしょう。
地域の除染が済まないうちは地域内にある学校が無事なわけがないと思う。
放射性物質は未だに原発から出つづけているし放射性物質は自然に分解される物ではないから
除去しない限り無くならない一度除去した所に違う場所からやってくる事の可能性は大でしょう?
除染はすると決定したが実際的な方法が決まってもいない、説明もない、安全か危険か、市民が
住んでいる中でおこなって良いのか悪いのかどうか?という事すらまだないのに・・

よく国や県、市は考えてほしいです。今回の原発事故以来先走った無責任の行動が後になって
問題になった事が多々あるわけだから。放射性物質の問題は長期問題になる事は誰もが認める
問題です。だからこそ焦らず行政の都合ではなく市民のそして命や健康問題を優先に考えて
行動してほしいと願います。

 

大先輩の話「Hさん編」

今から20年ぐらい前の話だ。
ちょうど今の僕と同じぐらいの年のHさんと出会った。
そもそもHさんとの出会いがなければ、僕は山の仕事はしていなかった。

Hさんは僕に林業に進むきっかけをつくってくれた人だ。
最初にHさんと行った初めての仕事は春の植え付け作業でした。
夏の下刈り作業はキツク危ないから、植え付けから始めて体を慣らそうという親心が
あったようです。本当のところはまぁ一番足手まといにならない仕事だったのではと思います。

一番最初に行った時には僕はほとんど何もできず、Hさんについて歩くだけだった。
熱くそして何をして良いかわからず何も出来ずに終わりました。結果的には足を引っ張って
いただけでした。
急斜面でもひょいひょいとカモシカのように歩いて行くその姿に、僕とは体の作りが違うと
思ったくらいだった。

自分の体力が通用すると思っていたのが、全く通用せず、これは自分には出来ない仕事だと
思った。ただ、その仕事をするしか当時の僕は生活の糧を得る方法がなかった。
その後夏の下刈り作業の季節になった、7月から始まる下刈り作業は熱い時間をさけ涼しく体に
楽な涼しい時間をという事で朝の4時から始まって8時まで4時間仕事をする。
8時から1時間朝食休憩をとって、そのあと4時間仕事をして13時に仕事が終わる。
山に4時に行くから3時半には出ないと行けない。
きつかった。
山の仕事が嫌で嫌で、行きたくないと何度も思った。
雨の日は体も楽だし草もよく切れるから?の理由で余程でない限り仕事だった。

夏は「水を飲むな」「体をもっと動かせ」「今日より明日はより早く動け」
「仕事が一人前になるまで屁理屈を語るな!」「草刈機を持つ格好が悪い」という指令が出たり、
「ギナ」だのなんだのと言われっぱなしだった。下刈り作業のきつさと早起きと言われる事の
きつさに根をあげて、1か月ぐらい休んで連絡もしない事もあった。
自分にはもっと適した違う仕事があると思っていた。

そんな時にHさんは「1週間だけでも仕事に来ないか?」とか
「1日だけでも仕事に来ないか?」
とか誘い続けてくれた。
少し心がほぐれた僕は段々と仕事に出るようになった。
仕事以外で会う時は優しかった。

今、思えばいろんな事がありました。
雨の日のほうが体が涼しいから楽だと言われて、例え大雨の日でも作業しました。
昼食はカッパを着たまま(とは言っても下は降ろす)軽トラックの中でおにぎりを
食べたのを思い出します。

若かった僕はいつかHさんを抜いてやろうと頑張ってきましたが、一度も勝てた事は
ありませんでした。

今思うと、若い僕を育てるために労力をかけてくれたHさんの心遣いがわかります。

20年経ってあの時のHさんと同じ年になり、今度は僕が若い人を育てる番に
なったことを痛切に感じています。

大先輩の話「Mさん編」

年配の人や職人の人の話を聞くことが大好きである。
約20年前に福島県に埼玉県から縁がありやってきました。

その中で様々な人と話をしたり、一緒に仕事したりしました。
叱咤激励もあり褒められたり泣かされたり、考えさせられたりしながらきました。

何も地方の事は知らず埼玉から出てきて、最初は本当に大変でした・・

Mさんは200名を超す人を雇とっている会社の社長です。

Mさんは朝5時には会社に来て真っ暗になるまで会社にいる人でした。
仕事以外にも趣味が多彩で、花や庭作りがが大好きで沢山の蘭や花を趣味でしていました。

人の何倍も働き人の倍考える、効率、能率を常に仕事に生かしている人でした。

最初の頃僕も若く何もわからない、出来ない若造でした。

あるとき日曜日で仕事を休み車を洗車をしていると突然注意をされました・・・
「仕事はいくらでもあるのにこんな天気の良い日に何故仕事をしない!
車を洗ってる余裕はない!日曜祭日は休みとはだれが決めたんだ?」
「今働かないでいつ働く!遊びは年を取ってからでもできる!仕事は若いうちしかできない!」
「男の価値は何でもできて稼げる事だ!」
「日中しかできない仕事は日中に、人付き合いは夜にしろ!明るいうちは体を使え!」
「他人と同じではいつまでたっても他人と同じ、良くもなれないし勝てないぞ!」
「若いうちは休むな!無理がきく若いうちに体と頭を使え!」
「何でも無理だできないと言うな!」
などと会うたびに言われました。

こんな話がありました。
「何か一つをやるにしても他人に何でも頼むな。」

この意味ってわかりますか?

もしも部屋にコンセントを取り付ける必要があって、それを自分は出来ないからと
工事人に頼めば1万円の出費となる。
しかし、自分でやろうとすれば、道具代が千円かかっても出費はそれだけで済む。
もしもそれが成功しなくても、「道具」と「それに取り組んだ経験」は残る。
だから、なんでも簡単に人にお願いしてしまうのは損なんだよという意味です。

「自分がやりもしない内にできないと決めるな。」
「宇宙にロケットが行く時代なんだから、出来ないなんて言うな。」
「若いうちから『疲れた』と言うな。」
Mさんからは色々と言われました。

すぐに理解できたことばかりではありませんが、今思うと全て納得の行く事ばかりで、
Mさんの教えてくれたことは僕の礎となっています。

 

今後を考える

今、毎日今後の法人としての生き残り方を考えつつあーすの再演の為にはどうしたらよいかを、
毎日毎日作業や施設内清掃、書類整理や写真整理など様々なことをしながら考えています。

その中でも写真整理をする事子供たちの事を考える事がが一番悲しく辛いです・・・

写真の中の子供達やスタッフはとても良い笑顔で映っています!

毎日子供達は笑いや笑顔にあふれ元気に未来の自分に向け進んでいました。
あーすでは本当に様々な事をしてきました。

みんなで一緒のご飯をきそって食べ、馬に乗り、散歩に行き、森や自然にひたしみ、
バスでドライブに行ったこと・・・
どれも本当に昔のことのようです。

4月から新しい児童デイの基準になります。詳しくはまだ理解していませんが、時代が逆行した
のでは?本当にそれが望む支援につながるのか?がわかりません。

 

 

いい加減にしろ!

今日東電補償担当者から電話があった。
とてもショックで信じられない連絡だった・・・

前日に話した一時避難としての施設移転費用は全て出せない。
避難区域ではないし、避難区域が解除になったので払えない、原発被害により営業が
できてない事は認めるので請求書にそって逸失利益等は保証するが、移転費用、改装費、家賃
等は保証できない。
というのです。

え?なんですか?

井戸水からも置いてあるマキからも、空気中も土壌もすべてからセシウムが出てるのに?
まだ除染もどこもしてないのに?
前回福島で社会福祉協議会開催で大勢の事業者の前で、避難事業所の一時避難時の施設移転
費用は全額みます、みなさんに以前の生活が戻るまで保証はします。はウソか!
と言いました!

すこしでも早く仕事がしたいだけなのに、自主再建に向け動き出したいだけなのに・・
除染もはっきりした内容はわからず、原発による被害もどんどん広がってるのにありえない!
避難区域が解除になったら20キロ圏内の人達にも同じこと言うのか!
市民で自主避難している人達も同じ事か!
人の命を何だと思ってるんだ!
俺に子供たちの健康とひきかえに仕事を再開しろ!っていうことか!
そんなことは絶対にしない!
今に見てろそんな訳にはいかないから!

俺は負けない!納得しない!同意書にもハンコは押さない!
と言い電話を切りました。

 

 

 

 

 

 

激しい攻防

原発事故から10カ月その間県や市東電との様々なやり取りがありました。
もちろん未だに解決進歩はほとんどしていません。

去年の3月原発事故後屋内退避期間、及び多くの人達が避難所に集まりお風呂屋布団が無く、
障がい児達が避難所で中々生活が難しいと情報が各地で出ている際県や市に電話を入れ我が
あーすは電気もガスも使えます。お風呂も一度に十人は入れます!バスで迎えに行くことも
出来るし、子供達を見る職員もいます!食料もあります!一時的に福祉避難所にどうですか?
の問いに返事は無し。
市にも議員を通じて同じ話をしましたが、手が回らないから自分達でやってくれ!みたいな感じ
でした。

4月あーす再開とともに自前ガイガーカウンターでの放射線値の話に県や市は耳をかさず国の
基準より低いから大丈夫だの一言。市役所にはガイガーカウンターは無く自衛隊の連絡待ち。
挙句の果てには我が機械を貸せだの入手の言い訳等をはじめる。
海外からの情報を入手し危険性等を訴えるが国や県は数値が低いから大丈夫、今のところ特別
支援策はないですとの事。
空気や水、土壌が危険だから移転したい仮設住宅で行いたいと申し出でるが返事なし。

5月毎日のように空間線量を報告し、対策や移転費用の肩代わり等を交渉するが県や市は返事なし
小佐古氏が自身のプライドをかけ辞任し、涙ながらに訴え、入手した海外の情報と当てはめ
自分の子供達の命に対する考えは間違ってない!と確信し保護者会を開き末に休園、その
最終日に原発内で爆発騒ぎで作業員は全員避難させられるも、南相馬や相馬、県には連絡無し
プロパンを機会が踏んだだけだから!?原発内で起きた事故は速やかに報告します、嘘ばっかり!
の国や東電、そして怠慢化した市。
最終日に市から連絡訪問あり休園しないで営業してください、国や県の数値より低いんだから
大丈夫ですよ。

6月国や県はいきなり年間1ミリを目指す発言!いったいなんだったの?いい加減にしろと
電話する。仮設住宅街もしくは除染が早い学校内に移動したいと再度もうしでするも話にならず。
子供達の夏休み等の活動を考え、福島キッズの実行委委員になり、県や市に資金援助など協力
等のお伺いするがまったく話にならず。県は県外に連れて行く事は県民が他県への流失に
つながるとか言い予算を出さず。その後新聞やマスコミが騒ぎ県はあわてて予算を作り、県内
に移動に限りお金をだすとそして旅行業者に多額のお金を払う。

7月8月福島県の障がい児を引率して北海道に行き、南相馬市からも多数の子供たちが参加、
市議会議員、県議会議員に北海道での開所式に参加して欲しいと話すも難しいで終わり。
ホットスポット等が話題になり段々国や県、市は質問しても以前のようには答えなくなった。

10月11月自主避難者や事業所に関しても保証が出るようになり、東電に移転及び除染を早急に
と毎週電話や呼び出しにて交渉するも明確な返事なし。

12月市は仮設への移転は無理との答え。そして移転費用及び除染活動の補助は県及び国の判断
で行う。市にはお金はありませんとの答え。
早々地域及び南相馬市で音楽による支援を再度訴えるが関心なし!
最終的にはお金がないの一言!いい加減にしてほしい。
東電担当者と年内最後の話し合い全然進歩せず、相変わらず上から目線で後払い、因果関係、
理由書を下さいとの事!原発以外何物でもないだろう!とどなってしまった。
井戸水から10ベクレル検出息子からセシウム、未だ空間線量高しは認める。
しかし保証に関しては相変わらず返答なし。

1月東電に早々に年内の返事を要求!そして先週ニュースでマキストーブの灰から高濃度の放射性
物質の情報、想像はしていましたが念の為に調べてもらうと何と!想像以上の18万6千ベクレル!
県、市のどちらの議員に報告するとあっさり仕方ないね、でるでしょう~の一言。
東電に強く発言するも何も無く個人で勝手にしてくれみたいな感じ、しょせん市民の代表で無く
自分が政治家もどきになりたいのがバレバレの発言でがっかりです。
ひどい仕打ちです。二本松よりも高いのに心配する様子もなくさっさと電話を切る始末俺は
県民でも市民でもないのかと思ってしまいました。今日まで県からも市からも何の連絡はあり
ません。灰をまき散らしてもいいの?行政はなんと考えているのかわかりません。

そして今日の日中ダメ押しの携帯への着信、見慣れぬ電話出てみると東電の連絡係の女性、
会話と同時に一応はマニュアル通り謝罪はするもマニュアルを読んでいるのがバレバレのどもり
や会話の噛み具合!そして同意書はご覧になりましたか?
はぁ?見てません、届いてません!質問状の答えが返ってこない限り同意はできません等を
伝えると来週また電話しますとの事、最後までどもり噛みまくり、東電の社員でなく
人材派遣なのが見え見えでバカにするなと電話を切ってから言いました。

来月も同じような事で労力及び心労があるかと思うとうんざりです。

 

始めない理由

最近よく聞かれる。いつ再開するのですか?
何で再開しないのですが?

それにはこう答えています。

今あーすの空間線量は平均1μ㏜風向きにより1.5μ㏜位まで普通に上がります。それ以上の
時もあります。
また井戸水からはセシウムが10ベクレル民間の検査で検出されました。
中庭のあちこちからは雨樋からの影響を受け高い放射線値を出しています。

我があーすは山に囲まれた場所にありホットスポットも直線距離で1キロ位の所にあり
利用者の住む原町、鹿島、相馬、新地の町よりも空間線量が常に高いのです。
郡山の様に市全体が高いかもしくは利用者の住まいと僕の所が同じ線量なら間違いなく
すぐにでも再開しますと・・
ある利用者のお母さんは理解が難しい子供にマスクや外で遊べない理由を外には
毒があるからと教えたそうです。
その毒が薄い所から濃い所に連れてくるのはありえないでしょう?と話しています。

昨年12月に市役所申し込みによる内部被ばく測定を僕、高2息子、義妹の3人で
私立病院でうけました。

息子は3月は埼玉県に4月は宮城県鳴子、5月から高校が相馬市で始まる事により
南相馬に戻り義妹宅で生活を今現在もしています。毎日マスクをし6月から相馬でクラブ
活動サッカーをしていた。
義妹は一度も避難する事無く屋内退避時には鹿島区の実家に住み今現在も南相馬市で
工場の総務で勤務。

自分3月埼玉に避難、3月中3度南相馬に戻り、4月から鹿島区上栃窪のあーすにて生活。
6月いっぱいは鹿島にて生活7月から9月仕事で北海道、10月から11月新潟県及び東京。
その間たびたび鹿島に戻り生活や施設の維持管理の為草刈りや木を切ったりしていた。

簡単な生活歴です。
結果は想像どおりでした。

息子 Cs134 345ベクレル Cs137 356ベクレル   預託実行線量 0.032μ㏜

義妹 Cs134 261ベクレル Cs137 検出されず  預託実行線量 0.042μ㏜

僕 今回の測定では放射性物質は全て検出されず。

どうですか?このような結果がでました。残念です・・想像していた予想通りです。
数字が一番高いのが一番若いのです。
息子は自分で言っていました。俺はクラブでサッカーをしていたからだと思う。
同じ友達も親より子供の方が数字が高い!と話していました。

息子は相馬市でサテライトで学校に通い学校がクラブ活動を再開する事になり
参加しました。毎日今現在もマスクをし生活をしています。
学校を責めるつもりもありません。
ただみんなに知ってもらいたい、相馬も安全でないという事、数字が許容範囲だから
平気だではなく相馬でもしっかりでているという事を。

この問題と同じことがあーすを今再開したら、子供達から出る可能性が間違いなく
あるという事です。
一緒に生活暮らしている親からはでず、学校やあーすに通っている子供から検出されたら
どうですか?

僕にはできません。

報告書には何気なくこんな文章が書いてあります。

今後の生活で内部被曝を減らすよう、食事や水分摂取は留意が必要です。

ありえない事です。

ある市議会議員は言いました、数字が低いから大丈夫、相馬での学校生活は関係ないん
じゃないの?クラブ活動が関係してたら相馬の子供達からは全部検出されるよね?

僕は言いました、飯舘、郡山、栃木、千葉でも仙台でも植物から出てるだろ!
よく考えればわかるでしょう!セシウムは土や埃地面にある!
空気中に漂ってるものでない!
今すぐ子供達は優先に全員調査するべきだ!

なんとも思っていません。役人は・・駄目です。

二本松マンション問題にしてもすべてそうです。

今日の新聞で川内村が帰還に向け飲料水の基準を国の1キロ当たり200ベクレルを10ベクレル
まで厳しくすると書いてありました。もう我が井戸水は10ベクレルです。
まだ厳しくなると思っています。外国ではまだまだ基準は厳しいのです。

わが井戸水はまだまだ汚染されるでしょう・・

ますます内部被曝に関する事は問題になると思います。
国や県、市はその都度ごまかし責任逃れを言うでしょう。

物はお金で解決できるでしょう。

健康、命はお金では解決できないでしょう!まだまだ国や東電や県や市が安全や命を
守るとそして責任をすべて認めない限りは安心して再開は出来ないと思っています。